こんにちは現役保育士のかずこよです☆
今回は「よいことって何?」について書いていきます
よく子どもにも「よいことをしましょう」「それはよくないことだよ」と言う会話が聞こえてきますが、「よいこと」ってなんだろうと考えたことがある方はいるでしょうか?
みなさんにとって「よいこと」ってどんなものでしょうか?
ケーキを食べておいしい・テストの点数がよかったなどのよいことや、人を助けたり、相手のために尽くすという「よいこと」というものがあります。
これを分けてよいことを分けると「快」と「善」にわけることができます。
また、「優良」という3つ目の「よいこと」がありますが今回は「快」・「善い」について説明していきます。
保育園や教育で使われる「よいこと」というのは、主に「善」であることが多いと思います。
なぜ「善」を保育園では教えているのか。それは、道徳や倫理に繋がるからです
倫理や道徳については別記事でありますので、そちらを読んでみてください☆
「快」というよいこと
快はケーキが美味しい・テストの点数が良かったなどの「個人が幸福感を感じること」です。
快は意欲と欲求と目的があって、それを満たされたときになるいい気持ちです。
インスタで見た美味しそうなケーキ。それを食べるために、バイトを少し多めに入れたり、普段のおやつを我慢して節約したりした。休日にやっとパンケーキを食べることが出来た。幸せだな。
これが快です。
快は自分自信が幸福を味わうために、自分で行う行為であって、自分にだけ感じられればいいという「よいこと」です。
「善」というよいこと
善は快とは少し違い、「社会的正義とみなされること」で、平和のために努力したり、貧しい人のために尽くすことです。
平和のためとか貧しい人のためにというと現実味がなくなってしまいますが、要は、社会・人のためを思って行う行為です。
例えば、おばあちゃんが重そうな荷物を持って階段の前で立っていた時に、「荷物を持ちましょうか?」と声を掛けてあげることだったり、バスで席を譲ったりすることです。
しかし、善はほとんどの人は、「誉められたい」「名誉が欲しい」という動機からしています。
なぜなら、人間は誉められたいという強い欲求を持っているからです。
そんな中、誉められる基準はどこにあるのか?という疑問が生まれます。
重い荷物を持ってあげることが本当に誉められることなのか?バスで席を譲ることが誉められることなのか?これは誰がきめたことなのか。。。
この誉められる基準は、みんなが「善」というものを天秤にかけて、みんなが認めたことが「善」になります。
なので、自分の中の「善」が周りとって「善」になるということではありません。
善は時には、自分の欲求を抑えて人のためにすることになります。
自分の欲求を抑えてまで「善」をすることに意味があるのかと思います。
しかし、「善」は「快」とは違う幸福感を味わうことができます。
どんな幸福感を味わえるかというと、「自分がただ欲求だけに従って生きているのではないという実感を感じ、自分の存在を確認できる喜び」を感じることができます。
善は自分の存在価値を見出すことができます。
快と善の壁
「快」のよいと「善」のよいはなかなか一致しないことがあります。
なぜなら、「快」は自分だけに感じられればいいですが、「善」は周りの人にとっての「快」と感じられないといけません。
逆に言えば、「善」をするために、自分にとっての「不快」に耐えなければならないことがあります。
そして、自分にとっての「快」を追求すると他の人にとっての「不快」や「不幸」になる可能性が出てきてしまいます。
すると、自分の欲求を抑えて不快に耐え続けることが「善」なのかと思われますが、それは違います。
今回はここまで・・・
次回は「耐えることが本当の善なのか」について書いていきます。
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