夜の21時。
3歳の葵がようやく寝息を立て始めた、静かなリビング。
恵はキッチンの椅子に座り、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。
「ねえ、誠さん。葵の保育園だけど……やっぱり、一番近い『ひまわり園』でいいわよね?」
恵の声には、一日の育児を終えた疲労と、「早く行き先を決めて安心したい」という切実な思いが混じっていた。
「地図で測ったら、家から徒歩5分なのよ。雨の日も風の日も、毎日送り迎えするのは私なんだから。近さは何物にも代えられないわ」
誠は読みかけの本を閉じ、ゆっくりと眼鏡を拭き始めた。
「それにね、近所のママ友もみんな『あそこが無難よ』って言ってるし。あそ裁判所の園庭、滑り台が大きくて楽しそうだったわよ」
誠は眼鏡をかけ直し、穏やかだが鋭い眼差しを恵に向けた。
「恵。一つ聞いてもいいかい? 君が今、葵の人生で最も重要な【環境の選択】を、『物理的な距離』と『他人の噂』だけで完結させようとしている自覚はあるかな?」
恵が、少しムッとした表情で誠を振り返る。
「そんな言い方しなくても……。保育園なんて、どこもそんなに変わらないでしょ? 元気に遊んで、お昼寝して、給食を食べる。何より親が楽で笑顔でいられるのが、子供にとっても一番だと思うのよ」
「なるほど。一見、非常に合理的だね。じゃあ、一つ【例え話】をしようか」
誠はテーブルの端に置いてあった、恵のタブレットPCを指差した。
「恵、君がそのPCを買ったとき、『家から一番近い店に在庫があったから』という理由だけで決めたかい? それとも、自分のやりたい仕事に対してスペックが十分か、5年後もストレスなく使えるかを考えて選んだのかい?」
「それは……もちろん、スペックも調べたし、他の機種と比較もしたわよ。安くない買い物だし、仕事道具なんだから、使いにくかったら困るもの」
「そうだよね。自分の道具にはそれほど慎重になるのに、葵という【人格の土台】を作る3年間を過ごす場所については、成分も調べず、利便性だけで決めようとしている」
「これは、一生住む家を建てるための土地を、『近所の砂利が安かったから』という理由だけで選ぶようなものだ」
「土地の砂利……?」
「そう。砂利が脆(もろ)ければ、その上にどんな立派な教育という建物を建てても、いつか土台から歪んでしまう。子供の脳は、3歳までに約80%が完成すると言われているんだ。その黄金期に、どんな『言葉』を浴び、どんな『哲学』を持った大人に囲まれて過ごすか。その【成分】の違いが、葵の20年後の姿を決定づけるんだよ」
恵は、誠の言葉を反芻するように、自分の指先をじっと見つめた。
「……確かに。私は『自分が預けやすいかどうか』ばかり考えていたかもしれないわ」
「利便性を否定はしない。でも、それは選ぶための『条件』であって『目的』じゃないんだ。僕たちがやるべきなのは、葵をただ預ける『託児施設』を探すことじゃない。葵が葵らしく花開くための『最高の土壌』を、【投資家】の目で見定めることだよ」
「投資家……。保育料や時間を、葵の未来のために投じる、ということね」
「その通り。ひまわり園が悪いと言っているわけじゃないんだ。ただ、僕たちが納得できる【投資先】かどうかを確認せずに決めるのは、葵に対して誠実ではないと思うんだよ」
「明日から、僕たち家族にとっての『正解』を探しに行こう。まずは、僕たちが葵に『どうなってほしいか』。そこを言語化することから始めようか」
恵は、寝室から聞こえてくる葵の穏やかな寝息に耳を澄ませた。
「……そうね。ただの『近所の園』じゃなくて、葵が『ここでよかった』って思える場所を、ちゃんと私の目で見極めたいわ」
二人の前には、まだ何も書き込まれていない、真っ白なノートが広げられていた。
